能動と受動
私の友人のT先生という方は、長年保育に携わっていらっしゃる。その姿勢はいつも真摯で頭が下がる思いだ。
先日も『アクティブ・ラーニング』についてSNSに投稿なさっていた。
私はそれを読んで、こういう考えの人が、幼児の教育畑にはまだいらっしゃることに安堵した。
が、一方でそんないい畑で育った子ども達の進路を想像し、愕然とするのである。
水を差すことになるのだが、いずれこういう子たちは何らかの形で『受験』を経験する。
ために、どこかでその『訓練』を受けるはずだ。問題はここにある。(実は“小学校”も問題なのだが…)
結局は、せっかく作った基礎もここで壊れてしまうかもしれないのだ。受験指導に能動はいらないどころか邪魔になるというセンセイが多い。
また、受験は親にとって“弱み”である。プロの先生に言われれば極端なことでも信じてしまう。
営業がための脅しにまんまと騙される…そんな実態を見すぎるほど見、聞きすぎるほど耳にしてきた。
また、我々が、否、少なくとも私が、お相手した子ども達の大半はactiveでなく、passiveである。
そして“我々”が見ることでpassiveな子はさらに増産される。
好奇心いっぱい、いっちょかみ、調子ノリ、要らんこと言い…これが子ども本来の姿なのだが、もはやそんな子は絶滅危惧種なのである。
怒ると叱る
仕事で対峙した子どもを怒ってはいけない。
叱らなければだめだ。この区別がなかなかに難しい。
この違いを体得すれば無駄に『怒らなくても』よくなる。しかし、難しい。
子どもを感情で怒って良いのは母親だけである。
なぜなら命をかけてこの世におとしてくれたのだからそれくらいの特権はよしとすべしであろう。
が、他方で母親ならしつけるだけで教えることからは引いていただきたい。
この二者を混同する、或いは区別できないがために今があると思う。
色々な学問が発展する中で、子どもを育てるという分野がどうもいけないように思う。
歳と共にその思いが強い。
余談だが。。
他の事なら大らかに見守られるのに、なぜ勉強となると話が違ってくるのかわからない。
勉強が出来ないからといって全人格が否定されるわけではないのに。。。
辛いことである。
おっちゃん!
子どもの友だちが遊びに来てくれた。
父親と二人暮らしの家に、『ご飯たべにおいでよ!』という誘い。
よくぞ、来てくれたものだ。
ご飯を食べている最中に、ごくごく自然に『おっちゃん』と呼ばれていた。
おっちゃん…うん、良い響き。
そう言えば、おっちゃんな私は、今までこう呼ばれた記憶があまりない。
私はと言えば、人を名前で呼ぶのが苦手なのである。
老若問わず、特に女性は…。
ところがこの子は違った。
ごく自然にちゃん付けだが、呼んでいた。
ずばずばとモノを言うようで、実はとても繊細な神経を持っている。
が、そこは大阪の女。面白いから、そんなことを感じさせない。
乗り出したら付いていけないテンポでジョークが炸裂する。
娘はこの子に『文句が多い』と言われるそうである。
そうなんだ。この子と居るとそうなるんだ…。
ずっと、一生、友だちで居てやってほしい。
我が子には…ずっと友だちで居てほしいと思われる人で居てほしい…。
『今度は、鍋ね!』とにっこり笑って約束してくれた顔を見ながら、そんなことを思った。
イライラ
家庭教師先の子の話である。
この子、故あっていまダイエットをしている。
もともと太ってなぞいないのだが、ちょっと絞る必要があるのだ。
そう聞いてから、順当に体重を落としているようだ。
先週など少し頬がこけていた。
最近、少々この子に異変を感じている。落ち着きがなく、イライラしているのだ。
お腹減ってる?
何かサプリ飲んでる?
どちらも備後だった。
中学生には、良くないなぁ(^_^;)
午後の教室
昨日は日曜日。
いつもやってくる小学生が来ず、前半は中学生の同窓会になってしまった。
お昼を挟んで、そのうちの二人が帰り、いつも精勤の男子が残った。
この子の方が“受験生”よりもまじめである。
他に塾ひとつ、さらに個別指導塾にも通っている。
学校は大阪ナンバーワンの男子校である。
私は、新参者の故、初めは口出しを避けていた。
が、ある日その子が解けない問題を片手に質問に来た。
この瞬間を私は待っていたのである。
その日から、時々質問に来るようになった。
急がず、慌てず、でも確実に彼との距離を詰めていった。
彼の学習環境は非常にタイトであった。
少し、息とガスを抜かなきゃ…わたしはそう思っていた。
少し前に、彼がそのようなことを母親に話したらしい。
が、勤勉な母親は、代替案を具体的に持たぬ息子の訴えを退けた。
今日の午後。その子と二人になった。
じっくり話を聞き、どうして欲しいのか、辞めて空いた時間をどう使うのかを訊いてみた。
非常に明快な答えが返ってきた。
自分の勉強のリズムとか方法を作りたい…彼はそう言うのである。
んじゃ、毎日学校帰りにここによってその日の整理をして帰る。
そして丸一学期間そのやり方で、定期試験を2回受けてみて順位が○○番台に下がったら、また元のやり方に戻すということで説得してみるか?…ということになり、私は筆ならぬキーボードを取った。
作文をしている間に彼の気配が薄くなった。
肩の荷が少し軽くなったのか、鉛筆を握ったままかれは居眠りをしていた。彼の居眠りを私は初めて見た。
中学生が無性に可愛いと思うのはこんな時である。
あんまり、時間がない…(-。-;)
私は、アラ還である。
今も子ども『達』の前に立ってはいる。
が、思うようなことができているとは決して言えない。
こんな事を書くと不遜と思われそうだが…。
自分としては『今』なのである。随分草臥れたとはいえ、まだ1時間や2時間は机間を回りながら喋りっぱなし…というようなことができる。つまり、子ども達に何かを伝えるだけの気力と体力がある。
が、残念ながらそれをさせてくれる舞台には上がれていない。
教育にもサービス業という面があって当然なのだが、それを優先するあまり、クレームをおそれ汲々とした授業をご所望なのである。
私の円熟期は今である。
私がこけたら図書館が1軒つぶれる…とまでは言えぬが、かなりのことが伝えられるだけの力は蓄えたようだ。
時間が勿体無い。
舞台がない踊り子は不幸である。