--/--/-- (--) --:--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
Trackback(-) comment(-) スポンサー広告
2009/12/27 (Sun) 23:52

席取り

今とは時代が違う。
私は大正女に育てらた昭和の子である。母親は親であるということに一切の有無も是非も言わせなかった。絶対的な存在である。 片親で育ててもらった恩も十分過ぎるほど着せられ、だから私は未だ母親に頭が上がらない。 没後二十五年を過ぎた今もそうである。

母親とお出かけをする。帰りには母親は疲れている。 私は大人の間を潜り抜け、一目散に席を取って、そしてそこへ悠然と乗り込んだ母親が当たり前のように私と交代する。 半分しか電車賃を払ってない奴に座る権利はないと言い放つ。 さらに親を座らせるのは子どもの義務だとも宣ふ。

そんな風に私は育てられ、育った。
久しぶりに宵の口に電車に乗った。近所の“大手塾”の子らが目に付く。 小紳士・小淑女たれと私が勤めていた塾の廊下に張り紙があったのを思い出した。 目に付く子ども達はそんな言葉とは程遠い。

二番目の駅から親子が乗り込んで、子どもが私の横に座った。座るなり、かばん、コート、小物を次々と母親に渡す。そして手には塾の教材と筆記用具が残った。
混んでいたので体がくっつきそうな距離である。そこへ横長の紙をバサバサとめくる。
仕舞いには窓を向いておこちゃますわりを始めた。

思わず母親を見上げた。予想通りそ知らぬ風である。 この子どもが咳をし始めた。よほど立とうかと思ったがそれではソフトバンクの思う壺である。 眉間にしわを寄せながらマスクをして、音楽に聞き入った。

こんなのはまだマシである。序の口、序の口。亡国の親子関係だ。日本をダメにする子育てではないか。
知識は一人で歩いても何の役にも立たない。 さらに云えば、勉強して“偉くなって”、人のために生きられねば、無意味である。

また洪庵の言葉を思い出した。
“医師というものは、とびきりの親切者以外は、なるべきしごとではない。”

私の隣に座った子が医者にならないことを祈るばかりである。
Trackback(-) comment*0 | もの申す
comment
URL:
Comment:
Pass:
Secret: 管理者にだけ表示を許可する
 
profil
archive
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。