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2008/05/15 (Thu) 03:00

親の心子知らず

子どもというものは幸運である。
何故ならば、無条件で庇護してくれ、愛してくれる親という保護者が居るからである。

私のような、人生の“彼は誰時”を迎えた者ですら、心のどこかに親に甘えたい気持ちを未だ持ち続けている。それほど親は深く愛してくれたのだろうか?
実は結構大雑把だったかもしれないと今になって思うのである。

しかし、子どもをやってるこちら側にとっては、親は山のような存在で畏れ多く、不死身の存在だったのである。

親の老いを目の当たりにした時の衝撃と切なさは前に書いた。
また、こんなこともあった。
ある日帰宅すると、母親が伏していた。
駅前のマーケットで買い物をし、バスに乗って帰るべく停留所に行き、発車寸前のバスのおしりを叩いて乗せてもらおうとしたらしい。
ところがバスは知らんぷりをして、発車した。
勢い余って母親は倒れたらしい。
間違いなくバックミラーに映っていただろう。しかし、気付かぬ体を装い発車した。

私は体中の血が逆流したかと思うほど腹が立ち、交通局に苦情の電話を掛けた。
そんな記憶がある。
勿論、市営バスからはそれなりの謝罪があったはずだ。

しかし、その記憶よりも、自分がそれほどまでに母親を大切に思っていたのかということをこの一件で再認識させられ、そのことが妙に照れくさかったことの方を鮮明に覚えている。

町中で見かける足元のおぼつかない老女。黙って見過ごすことができない。
買い物を袋を持って、階段を上っているおばあちゃんを見るとお節介の虫が騒ぐ。
“息子にもこんなにしてもらったことがない”と言いながら両手で私の手を包んで礼を言ってくれたおばあちゃんが居た。
“いや、おばあちゃん。息子だから素直にできないんだよ”と心で言いながら、いえいえと返している。
それでいい。
余所の人間に親切にしてもらえるおばあちゃんは人徳があるのである。

皆がそういう目で周りを見出したら、この乾いた社会はあっという間に潤いを取り戻す。
しかし、我が子の為と称し、子ども達の伸びる芽をわざわざ摘んできた社会。
そのしっぺ返しが今来ている。

私がバス停で転倒したら、我が子は交通局に苦情を言ってくれるだろうか。
自信がない。

大切なことを忘れているよ…そう言ってやりたい大人や子どもが多すぎるのである。
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